『天使の羽根を踏まないでっ』所感など:神学的探求を通した人間讃歌【きっとこれは、神様を_す、物語。】

前書き

 初めてのゲーム感想記事につき、拙文につき恐縮でございますが、ご容赦くださいませ。

 さて、私の好きなシナリオライターを三つ挙げるとするならば、間違いなく朱門優先生の名は入るでしょう。今回は、彼の現時点(2021/11/21)では最も新しい作品、奇跡と魔術のADV、『天使の羽根を踏まないでっ』に関して感じたことを色々と綴っていこうと思います。彼の作品は、このほかゲームは一通りプレイしています。特に『黒と黒と黒の祭壇』、『きっと、澄み渡る朝色よりも、』も本作品に加えて好きなので、機会があればこれらの感想も書ければと思います。

 さて、本作品ですが、非常に私好みの作品であるのですが、幾許か人を選ぶ要素を孕んでいるのは確かです。尤も、朱門優先生の作品の中では難解度は低く、入門作品としては最適なものの一つです。しかしながら、期待していたものとのギャップの存在によって楽しめなければ勿体無いので、粗筋と、極力具体的なネタバレを避けた所感を記載しますので、未読の方々は参考にしていただければと存じます。

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粗筋(公式HP:http://mephisto-game.com/angel/story/index_s.htmlより引用)

 ──神様の隣席は空いているとされています。

そして、そこに座る事が許されるのは ‘μ (ミュー)’ だけなのです──

「世界は滅亡する」

なんて言い残した予言者は大昔からたくさんいましたけれど、誰も彼もがお騒がせの山師ばかりでした。

けれど、今よりほんの少しだけ先の ‘現代’。 予言は真実となってしまいました。

本当にやってきた世界の終わりに、人々は為す術もなかったのです。

しかし、私たちを救ってくださったお方がおられました。

‘ 神様 ’。

予言と同じように誰もがまともに信じてもいなかった神様が、この世界をお救いくださったのです。

そうして注目されるようになったのが、ここ 『聖ソルイルナ学園』。

ここでは ‘μ’ という存在が神様によって選ばれます。

‘μ’ とは ‘空席である神様の隣席に座る資格を得た、その耳元に願いを囁く権利を有する者’ であり、そうして世界を救うようにお願いしてくださったのも ‘μ’ なのです。

──そこに私のお嬢様がご入学を望まれたことから、この物語は始まります──

所感ほか(ネタバレなし)

 テキスト、シナリオ共に非常に完成度の高い傑作です。奇跡、魔術、神といったモチーフが巧妙に設定に取り込まれており、ストーリーとしても読み応えがあるほか、様々な神論が語られる点で主題性も高く、充実した読了感を得ることができます。

 蛇足せんたろう先生によるCGは差分を除き106枚、ヨダ先生によるSD画は14枚となっています。シーンは22回で、サブヒロインやモブキャラのものもあります。陵辱も含みますが、ヒロインに関しては全て和姦になります。

 曲はWHITE-LIPSさんによるop『やさしい世界を君に』、ed『君の見る夢』です。作品の雰囲気に合った良曲。特にopの『やさしい世界を君に』はムービー含めてお気に入りです。特典のヨダ先生バージョンも混沌としていて良いですね。

 演出に関しては、発売日以上の古さを感じるものの、作品とマッチしており好ましいです。十分に惹き込まれるものでしょう。

 システム周りはボイスカットoff機能が無い、画面サイズが800*600であるなど、こちらも発売日以上に古さを感じさせます。旧作をある程度プレイしていた私はそこまで気になりませんでしたが、環境周りが快適であるとは言い難いです。

 聖ソルイナ学園には『太陽の学園』と『月の学園』の二つがあり、初めの選択によってどちらの舞台かが分岐されるのですが、この両者は別作品のような異なる作風をしています。『太陽の学園』は比較的日常が濃く、一方で『月の学園』では戦闘が濃くなっています。『太陽の学園』から攻略するのが良しとされています。『月の学園』ではある程度ルートロックがされていますので、好みの問題になりますが、強いて言うなら、初めは夕星羽音→十二字憩の順で攻略するのをお奨めします。

 加えて、日常会話も軽快で、パロディに頼らないながらも安定して面白いです。ヨダ先生によるSD絵も外せないですね。

 主人公である双見あやめは女子校に潜入する女装主人公で、時に可愛く、時に男気を発揮する素敵な主人公です。自分にとって好きな主人公の中でも三本の指に入るでしょう。特に戦闘シーンは印象的です。ただ、女装ものの王道は期待しないのが吉です。女装が発覚して云々…という展開は薄く、加えてHシーンの構図は女装主人公の特質が生かされていない点などが指摘されています。また、恋愛要素もかなり薄めなので、この点も念頭に置きたい処ですね。本作品に於ける女装の本質とは主人公のギャップを楽しむ点、女子校としての雰囲気づくりにあると考えます。

 シナリオゲーと呼ばれるものの中でも、宗教関係のモチーフや具体的かつ明確なメッセージ性を持つといった自分の好きな性質を的確に突いた作品でした。ほか、朱門優先生の独特なテキストも非常に好みです。粗筋の文章に惹かれた方にはプレイを強く推奨いたします。

 以下、内容に踏み込んだ考察等を含みますので、ご注意下さい。

 

 

 

 

Ⅰ.『太陽の学園』:“奇跡”、乃ち“意志”の表象

夏日ひかる、照√:きっとこれは、神様を愛す、物語。

 このルートは、主題として神を賛美している点で他の√とは異なっています。加えて、『太陽の学園』では、“奇跡”という設定の存在が特徴的です。明るい主題と輝く意志という点から見てもこのルートのストーリーは正に〈太陽〉であると言えるでしょう。

 シスター・シスレーは、μを望み、死するに至った、桐野天が不適格者故に評価されず、忌まれる現実の不平等、不条理について、神に対し責任を追及し、死者の「平等」を求め復讐を誓いました。双見あやめは、彼女に神を憎悪しながらも、神の手による平等に縋っている点を指摘しました。しかし、神が酷な運命を強要しているのも、また真です。死に瀕するひかるを前に、双見あやめはこの理不尽な運命を撥ね退ける力をμとして希求します。此処が愛のある運命を神に求め、縋ったシスター・シスレーと双見あやめの差であると言えるでしょう。残酷な運命に抗う力を得た双見あやめは、己を蝕む死に至る病が治り、夕星羽音との再会も果たしました。

 夏日ひかると夏日照の美しき姉妹の絆、崇高な意思という、真に双見あやめがその力を以てして護りたかったもの。神が授ける“奇跡”というものは、この“意志”を顕在化させる媒体でした。双見あやめはこれを神に授かったものとして、感謝と愛を捧げました。神の課す残酷な運命に憤りはしたものの、μの権能として運命に抗する力を授けたのが神であるのも、また事実。神への愛憎が表裏一体であるのは、双見あやめもシスター・シスレーも同様です。しかし、酷な運命を強要する神に憤りながらも、賜わりしものに感謝し、神を愛することと、不条理に憎悪しながらも神に与えられることを望むことでは些か異なります。世界には不条理が存在すのも確かですが、同時に護らねばならない美しきもので満ちています。世界の不条理を引き合いに出して神に対する不信を表明するのもありがちな主張ではあります。しかし、この不条理に憤るのと同様、美しき意志や絆に感謝することもまた忘れてはなりません。神の絶対や責任の無さを主張する一辺倒な弁神論ではありません。『太陽の学園』に於けるμとは、「神様の隣席で耳元に願いを囁く存在」であり、その条件は敬虔の証明でした。時に神の残酷さに怒りながらも、総じて神を隣人として愛すこと、というのがこのルートに於ける神論であるのだと考えます。ご都合主義のような奇跡を叶えるのもまた、意志によるもの。正真正銘、“意志”を伝えるための、“奇跡”を授けた神を愛する物語です。

 美しき姉妹愛。それは自由意思を持つ人間特有の輝きであり、護らねばならないものでした。

 

Ⅱ.『月の学園』:“魔術”、乃ち“誇り”の根源

夕星羽音√:きっとこれは、神様を殺す、物語。

 『夜の学園』のμの解釈は「古き神を殺し、新たな神として君臨する者」でした。“神殺し”とは如何なるものか、その解は作中に明記されています。このルートに於いて、神を殺すこととは、神を否定し、人間へと還すことであるとされています。神とは、上位存在、人間にとっての神による慈悲を拒絶し、涙を耐えながら生きるという、人間を超越した強さを手に入れること。これはμとなることと同義であり、μになるとは、乃ち神と同格になることです。そして、人間の宿命である“涙”を堪え続けた神に涙させ、神の座から引き摺り下ろすことこそが“神殺し”なのです。

 夕星羽音の存在は、双見あやめにとって、眩しい光を放ち、世界を照らし続ける、宛ら“太陽”でした。夕星羽音が双見あやめにとっての“友達”ではなく、“お嬢様”であったのは、この直視できない程の眩しさに拠るものでしょう。ですが、双見あやめは夕星羽音が彼にとっての〈月〉であったことに気が付きます。暗く冷たい夜を切り裂く光であり、常に傍で手を握り、温かさを教えてくれた存在。『太陽の学園』で双見あやめが夕星羽音に対して抱き続けた幻想が依然として“太陽”であった反面、『“月”の学園』では彼女こそが〈月〉であると悟っている点も秀逸なレトリックです。双見あやめは、恩返しとは夕星羽音の目的を叶えることではなく、彼女の幸せを考えることであると悟りました。結果、夕星羽音の傍にいることこそが恩返しであるということに気づきます。それ故に、罪悪感を覚えながらも、病によってやがて滅びる身であるからと、夕星羽音の役に立つ形で死することを望みます。魔術によって、双見あやめが“涙”として零れ落ちた結果、神は堕天、殺されたのでした。

学園に於ける魔術とは、言わば学問であり、先人に拠る知の集積です。魔術という学問領域に於いてその集積とは、一つには、“涙”を克服するためのものでした。夕星羽音はそうした学問である“魔術”を通して、自分自身と改めて向き合うことで、“誇り”を抱くに至りました。故に、魔術とは誇りの根源なのです。そうして、μとなった夕星羽音は誇り高き女神として新世界を築きました。彼女にとっての“明日”には、双見あやめの存在が不可欠でした。故に、新世界には夕星羽音の隣に双見あやめがいます。彼女の手を取って明日へと進む存在として。これこそが、神殺しが成就した証左なのです。正に、神を殺す物語でした。

 従者を超えて“友”として傍にいるという結論、そして双見あやめが夕星羽音を呼び捨てで呼ぶ瞬間、機微に触れるものがありました。従者ものの一つの解であると私は思います。

十二字憩√:きっとこれは、神様を捜す、物語。

 「約束するよ——もしも何もかもが変わってしまって、キミがどこかで迷子になってしまったとしても——『邪魔な扉も壁も、わたしが全部叩いて、割って、必ずわたしが、探し出してみせるから——!』」

十二字憩とトロッケンハイトは旧知の仲。しかし、トロッケンハイトは自分の外側の怪物に人格を巣食われていました。トロッケンハイトは、悪意が己を巣食い、自分が自分でなくなっていく様に恐怖していました。十二字憩は、そんな彼女から“彼女自身”である部分を捜し出し、彼女を救おうと学園にやってきたのでした。

十二字憩には、トロッケンハイトの変化の原因が己にあるのではないか、という葛藤がありました。彼女の口から、トロッケンハイトの闇を知るために、好きでもない孤独の環境に自ら身を置いたという事実が語られます。十二字憩は強い人間なのではなく、人並みの葛藤を持つ少女であったのです。

夜空を追放された星の子が自らの存在意義に疑問を覚え、途方に暮れるように思い悩む十二字憩に道を示したのは双見あやめでした。夜を照らす強さが無くとも、等身大の彼女に対する愛を表明することで、彼女は救われたのです。

彼女は、手の届かない、壁の向こう側にあったトロッケンハイトの本性を捜し出し、救い出しました。これは、トロッケンハイトを捜す物語でした。トロッケンハイトの本性を追い求めていたのは、十二字憩にとっての至上使命であり、トロッケンハイトの本性は神と同義であったと言えるでしょう。葛藤しながらもそれを表に出さず、親友を救おうと奮闘する十二字憩と、己を蝕む悪意と戦い続けていた健気なトロッケンハイトとの美しき友情。仲良きことは美しき哉

双見空√:きっとこれは、神様を試す、物語。

 「世界について考える」ことによって、双見空√へと分岐します。世界に関して考える中、双見あやめは神に対し疑念を抱き始めます。残酷なμの選定や奇跡、魔術の伝授、神の両眼たる太陽と月。これらは神の思し召しに拠るものなのは確かであるものの、双見あやめにはその目的が掴めていませんでした。これまでのルートでも確かに神はμとなった人物の願いを叶えていますが、願われねば救わないという神の姿勢に対する猜疑。μに選ばれるということは、神に差し出されるも同然です。掌の上で人間を弄んでいるとも捉えられる神に、夕星羽音を任せても良いのかと。これは、神に疑念を覚えた双見あやめが神を試す物語です。

『神は不在なり(イドロン)』にて育った双見空。彼女は神という存在を忌んでいました。その最大の原因は、実の兄、ホルバインを変えてしまったのが神であると考えていたからだと語られます。嘗ては普通の兄妹だったであろうに、ホルバインに実際に殺されかけた双見空がこの様に思うのは、無理のないことでしょう。

 双見空が真実を告白した後もなお、双見あやめは彼女の予期していた失望や幻滅といった反応を全く見せず、彼女を家族として、妹として受け容れた場面も印象的です。双見空の過去に関わらず、双見あやめと双見空の歩んだ兄弟としての日々に偽りは無かったのです。

 実のところ、双見空の血の繋がった兄、ホルバインは神を棄てていました。実の妹を殺す運命を嘆いていたからです。本物の兄妹であれば妹を殺す筈がないという双見あやめの兄妹観に間違いは無く、ホルバインは妹を敢えて逃していました。

 神を試した結果、彼らは神を棄てたのでしょう。神の祝福ではなく、亡きホルバインの祝福を求めました。これは神に対する不信に拠るものではなく、逃避場所が必要なくなったからであると思います。

Ⅲ.閑話休題:トロッケンハイト・フォン・メルクーア

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 私の嫁です。御三華(レジメント)の1つ、「双鉗(ミリアーデ)」の後継者であるトロッケンハイト・フォン・メルクーア。通称トロ先輩。彼女は本作に於けるサブヒロインであり敵役なのですが、私が最も好きなキャラクターになります。彼女の哲学には共感させられるものが多く、彼女の言葉の数々や生き様は琴線に触れました。

彼女の魅力の一つには、気高さがありました。

「他人の好意は楽を与えてくれる、けれど、楽は慣れてしまうもの、慣れてしまえば他人の好意が当然となってしまう。そうして楽はいつしか怠惰を産み落とす、私はそれが恐ろしい。」

 これは彼女の名言として有名ですね。身体が不自由で車椅子で生活をする彼女は、何かと他者によって手を差し伸べられる機会が多かったでしょう。しかし、そこに甘んじないのがトロ先輩です。身障者であるから、他者の助けを必要とするのは当然である、或いは、堕落もまた赦される、とする価値観もあるのかもしれません。しかしながら、彼女自身はそれを是としませんでした。人並、否、それ以上の尊厳を維持しようとしたのです。そして彼女は、忠誠や畏怖、尊敬の対象たる女帝の地位を築き上げたのです。これも彼女の人一倍以上のストイックさがあってのことでしょう。彼女は身体が不自由であったのに加え、異邦人でもあったため、過去に虐げられていたとされています。そのような逆境に対しても彼女は辛い顔を見せず毅然として振舞いを維持していたようです。女帝として崇められていた環境とは真逆に値するものですが、これも彼女の功績であると言えるでしょう。

 彼女は元来心優しい少女でした。悪名高い「乾きの女帝」の血を継承してはいるものの、彼女は祖先の悪行を嫌っていました。しかし植え付けられた罪によって、人格を蝕まれつつあったのです。だからこそ彼女は、強い意志を以てしてそれと戦っていたのでしょう。彼女を蝕む“傲慢”は、周囲を傷つけるものでした。本来穏やかな性格であった彼女は葛藤した筈です。そんな彼女のギャップである健気さもまた、魅力の一つです。

 彼女はμとなった暁には“歩くことが無駄な世界”を創り出そうと、世界を水没させることを望んでいました。「乾きの女帝」として火刑を繰り返した彼女の先祖とはある種の対照を成しています。己が歩く世界を望む段階を超越し、歩くことが当然の世界を忌んだのでしょう。彼女の少女時代に較べて屈折した様が効果的に描かれています。

 その他、彼女の哲学を感じさせる台詞。

「現金なものだ。自分たちが好き勝手できる状況の時は流され従っている癖に、ちょっとでも抵抗されると途端に動揺する……おっかなびっくりやっているから、そんな事になるのだ」

「奴らはきっと、“悪いことをしている”などという意識を持っている。だから動揺する——“力こそが正義”。それがこの学園で唯一の真実だというのに」

 

 己の行動に罪悪感を覚える時点で、個としての一貫性に欠けた、言わば流され従うだけの人間なのでしょう。反面、彼女には“力こそが正義”という絶対的な真理が在りました。故に、彼女は己の信ずるものに徹することができたのでしょう。これもまた彼女の高貴さを裏付けるものであると考えます。反面、この状態の彼女は魔術に心を奪われていたのでしょう。本来の彼女も女帝たる彼女も、同様に気高く、本質的な違いはそこにあると考えます。“魔術”とは、夜の学園の主題に於いて“誇り”でした。これはトロ先輩に関しましても、例に漏れません。しかし、魔術を絶対的真理と捉え、魔術に呑まれるのはそれを与えた神に支配されているも同然。誇りは、魔術を通して己と向き合うことで得るべきもの。人間的な良心、“優しさ”を棄てないでこそ、人間としての“誇り”を持ちながら生きることができるのだと思います。

 ワガママ状態のトロ先輩を象徴するような台詞が一つあります。

「与えられていたからわからないのだっ!与えられなかった者の心はっ!決してっ!」

 持てるものと持たざるものの間には絶対的な隔絶があります。これもまた一つの真理なのでしょう。本作品は全体として前向きなメッセージを示す内容ですので、これもまた否定されるべき内容なのかもしれません。しかし、私には綺麗事を並べ、これを否定することはできません。トロ先輩が“与えられなかった者”であるからこそ、常人にはない苦渋を嘗めながら努力して這い上がったのは真実であるからです。その過程で彼女は与えられていた者との距離を肌で感じていたでしょう。私には、彼女という「天使の羽根を踏むことはできない」のです。

Ⅳ.ハーレム√:きっとこれは、神様を赦す、物語。

 本ルートは上記のルート全てを解放した後に初めて攻略可能となる、言わばTRUEルートのようなものです。他のルートを踏まえている点、ヒロインの誰も選択しない点があってこその物語。そしてこのルートにこそ本作の大きな主題が篭められています。しかし、その主題を裏付けるものはこれまでのルートで全て述べられていました。人としての尊厳ある生き方を見失わないため、それらが昇華されたものです。

 神への疑念より始まり浮かび上がった真実。嘗て双見あやめがいた「塾」の創設者である「先生」が現れて神の意図を語ります。神が“奇跡”と“魔術”を島に授けた意図、それは神が光であるためでした。神が善として信仰を受けるため、先ず“奇跡”を創造しました。また、善が無ければ悪も成り立たちません。それ故、神は“魔術”を創造し、『月の学園』の解釈によって神の干渉する範囲内の悪を発明しました。“奇跡”と“魔術”は、利己的な神の存在証明として島に授けられたのだと語られました。神がμを選定する目的は、強い願いを持った者独自の世界観によって、刺戟を受けることで世界に起きた異変を修正することでした。しかし、先生によって“罪”を埋め込められた塾生の七人がμに選定された場合、神はその世界観を消費しきることができず、その世界に閉じ籠り、“神の停止”が起こります。加えて、双見あやめには、桐野天の死によって罪が二つ宿っていました。これは双見あやめに身体的変調が齎された原因でもあります。その双見あやめの存在によって、彼は“真の神殺し”を果たしました。

 先生の神への殺意は、恩師の教えである「神を疑え」に起因していました。神とは、死を筆頭に現実に蔓延る不条理の逃避先として弱者のため発明されたもの。故に、神は意志を持つ支配者であってはならない、まして利己心を振り翳す様は裏切りであるとして、先生は“意思を持つ真なる神”を殺したのです。双見あやめにとって神同然である、先生が悪魔王として堕天したのは、双見あやめを始めとする塾生に対する人としての証明を強いるためなのでしょう。

 双見あやめ達塾生は、神が我欲のために創ったとされる“奇跡”と“魔術”によって、確かなものを得ました。これこそが、彼らが人であることの証明になります。“奇跡”と“魔術”という超常的な現象を、人は自らの力を以て己の言語として翻訳し、生存の糧としました。“奇跡”は“意志”へと、“魔術”は“誇り”へと。結果的にこの解に辿り着き、それら神の被造物を我が物とした彼らは、今となっては神を欲していません。神に縋るものであったならば、超常の対処について神に依存していたでしょう。死や不条理と同様に。確かに実存は本質に先立っています。しかし、本質が脱落した時、実存そのものを人間は受け容れることができない。実存に本質を付与するのは人間の役割です。“奇跡”が“意志”、“魔術”が“誇り”という名に変換される過程にこそ本質が浮かび上がるのです。

 神は利己的な目的のために“奇跡”と“魔術”の創造、μの選定を行っていました。しかし、神は既にいない。また、神の意図に関わらず、彼らは与えられたそれらを通して数々の尊いものを得ました。だからこそ、彼らは利己的な神を赦したのです。

 神の奴隷であること勿れ。敵役に当たる先生の主張ですが、この作品の主題とは重なる部分があります。人として尊厳のある生を歩むにあたり、神に与えられたものに踊らされるばかりではならず、それを我が物にせねばなりません。そうするには、“奇跡”でそうあったように美しき“意思”を護ること。“魔術”でそうあったように己と向き合い、“誇り”を持つこと。この様な人間的な部分を見失わないことが重要なのです。

Ⅴ.キャラクター、タイトル、その他小咄

双見あやめ

本作の主人公。可愛い系かと思いきや、ここぞという場面で男気を発揮します。武術で魔術を圧倒する脳筋系。一般人にあるまじき強キャラです。

 先生の手によって埋め込まれた罪は“色欲”、加えて桐野天の死によって“憤怒”の罪もまた宿しています。色欲に関しては彼の身体を蝕むものとして、往々にしてシーンの契機になっているのですが、夕星羽音√のトロッケンハイト戦などで印象的な、彼が慟哭するシーンなどは憤怒に裏付けられているのかなと。

 彼の名前、「あやめ」は道理などを意味する「文目」を示唆し、人間の象徴であるそれは神の創世における六日目の人の創造に譬えられました。一方、姓である「双見」は神の双眼である太陽と月を示唆しています。

夏日ひかる

 本作の『太陽の学園』編のヒロインで夏日姉妹の姉の方。その能力の高さ故に学園生の羨望の対象です。ハーレム√では、奇跡を獲得したμとして活躍します。

 埋め込まれた罪は“怠惰”。妹の模範であろうとした努力も過去の事故を契機に停止し、自分の世界に閉じ籠っていました。

 彼女の名前、「ひかる」創世一日目の光に譬えられ、姓の「夏日」は火星を示します。

夏日照

 本作の『太陽の学園』編のヒロインで夏日姉妹の妹の方。天然ドジっ子です。『太陽の学園』では双見あやめと長い時間を共にしています。

 埋め込まれた罪は“嫉妬”。反面彼女が他者の才能に嫉妬する様を見せないのは、他者の美点を愛でることで抑圧していたからだとされています。

 彼女の名、「照」は創世四日目の、大地を照らす太陽と月に譬えられました。

夕星羽音

 『月の学園』編のヒロインにして、パッケージを飾っている彼女。双見あやめの雇い主であり、先生の実の娘です。

 彼女が埋め込まれた罪は“強欲”。友達としての双見あやめを強く求めました。

 彼女の名、「羽音」は創世五日目の鳥の創造に譬えられています。彼女の姓、「夕星」は金星を示します。

 彼女の魔術は一騎当千

十二字憩

 『月の学園』編のヒロイン。御三華(レジュメント)の「零(シュラ―ゲン)」の後継者。エチエチ。

 埋め込まれた罪は“暴食”。病弱な身体を健全なものにする目的とも合致していました。

 彼女の名、「憩」は創世七日目の神の安息に譬えられました。彼女の姓、「十二字」は木星を示します。

双見空

 『月の学園』編のヒロイン。男装女子。主人公の弟(妹)。ヒロイン中唯一元塾生ではない者。『太陽の学園』でも主人公と行動を共にしています。彼女が隠れた強キャラであることは個別ルートにて明かされます。

 彼女の名、「空」は創世二日目の天の創造に譬えられました。

トロッケンハイト・フォン・メルクーア

 『月の学園』編に登場。サブヒロイン。元塾生で車椅子を常用。十二字憩とは旧知の仲。

 埋め込まれた罪は“傲慢”。自身を吞み込まんとする罪と、気高さを以て戦い続けました。

 彼女の名、「トロッケンハイト」は乾きを意味し、創世四日目の大地の創造に譬えられました。姓、「メルクーア」は水星を意味します。

『やさしい世界を君に』

 『やさしい世界を君に』の歌詞は、夕星羽音と双見あやめを描いたものであると考えます。夕星羽音ルートにて、彼女の傍にいると誓った双見あやめ。共に歩く明日こそが二人の望んだ「やさしい世界」なのでしょう。個人的に夕星羽音は最も報われてほしいヒロインですね。

『君の見る夢』

 『君の見る夢』の歌詞は、ハーレムエンドを踏まえたものでしょう。ハーレムエンドの終わりには、双見あやめの独白に続く形でエンディングとして流れます。神様が見ていたのは彼の利己心を満たす夢。しかし、それが君にとってやさしい夢であるのなら…。

天使の羽根を踏まないでっ

 悪魔王ではなく、依然として神に囚われた天使であった先生の羽根、背中の羽から抜け落ちたものは、彼の苦しみの結晶でした。故に、踏み躙ってよいものではない。タイトル回収の場面は非常に印象的ですね。他者の想像を絶する苦渋の結晶を冒さないこと。葛藤していたのは先生だけではありませんでした。ヒロインたちやトロ先輩、ホルバインさん。彼らの辿り着いた願望や真理を全否定せず、皆の幸福を願うことがやさしい世界の実現に必要なのだと思います。

名台詞・名場面

 本作品には心動かす名言、名場面が数多くあります。その中でも特に好きなものを幾つか抜粋。

双見あやめ「『噂とは呪いである』という話を聞いた事があります。誰かが誰かを恨んだとして、それが噂となって本人に届けば、本人にも影響を与える。」

 陰口は本人の意思如何に関わらず、その対象に悪しき影響を及ぼすもの。呪いとはよく言ったもので、それは悪意を以て成されるもの同然なのでしょう。軽率にすべきものではありません。

双見あやめ「学問って人が積み重ねてきた知識じゃないですか、それって、目の前の困難を克服するために、そして、新たな一歩を踏み出すために、積み重ねてきたものですね?」

 学問とは乃ち進化するための努力なのです。ここに於ける学問とは魔術を指しています。魔術を修めることで人間は課題を克服し、より高みへと昇っていきます。魔術に限らず、学問をする上で大切にしたい意識。

 

先生「神は何処にでもいるさ。汝が日々を過ごす場所にも、汝が一度として足を踏み入れた事のない場所にも、何処にだって、何時だっている。それが神というものだ」

「隣人、友人、知人——汝が縋った者こそが、汝にとっての“神”だ。判断をその者に預け、逃避場所を持ったのならば……そこから戻ってくるのは容易ではない」

 

 

 前半部分は汎神論のような言い回しですが、彼にとって神が人によって発明されたものであると再三強調している点で異なります。判断を絶対なる神に委ねてはならない。神に支配される奴隷となってしまうから。先生の過去を象徴する台詞です。

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 夕星羽音ルートの双見あやめ対トロッケンハイト戦。双見あやめが叫ぶシーンは何度観てもビリビリ来ますね。カッコイイです。

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 夕星羽音ルートで双見あやめが夕星羽音を「羽音」と呼ぶシーン。普通に号泣しました。素晴らしい。

Ⅵ.総括

 神が実在する世界。その神を前に人間はどう行動するのか。場合によっては愛し、場合によっては殺す。神の像はその環境によって揺らぐもの。しかし、状況に応じて自らの幸福のために、道標として神を利用するのもまた、人間が神の奴隷にあらざる証左なのでしょう。神とは、絶対的なものではなかったのです。“奇跡”や“魔術”に限らず、仮に世界も、光も、天も、大地も、海も、太陽も、月も、翼も、人間も、休息も、善も、悪も、総てが神の我欲のために創造されたものであったとしても、既に人間が我が物とした以上、それは問題にはなりません。彼らが得たものは、仮令神の被造物であろうとそこに必ずしも神の意図を見出さないでしょう。逃避先たる神と決別するにあたり、必ずしもその被造物を棄てる必要はないのです。

 依存の対象である神から自立するには、愛着だけでなく憎悪も棄てねばなりません。だからこそ、時として神からの自立は“赦し”によって成就されます。そうして人間の中で神は死に至り、人間は尊厳ある自律的存在なのです。故に、人間同士は互いを尊重し、蹂躙してはならない。そうしてやさしい世界は構築されます。これもまた、一つの楽園なのでしょう。宗教的なモチーフが不断に盛り込まれ、神の在り方に関する言及を重ねた結果、至った結論とは人間に絶対神は不要であるというものでした。

 『太陽の学園』と『月の学園』のそれぞれの深く作り込まれた設定とそれによって成立する雰囲気、キャラクターの内面造形の深さとそれ故の魅力、終盤の畳み掛けるような伏線回収、燃える戦闘シーン、知的かつ描写が丁寧なテキスト、作品と上手く調和した音楽やCG、声優…総じて完成度が高く、同時に私の嗜好に刺さった作品でした。

 

 惑星の名を冠している点で運命を感じさせる7人が『ソレイルナの死角』へと集ったのも、神、もとい創造主による思し召しであるのかもしれません。しかし、「だからどうという話ではない」のです。かけがえのない日常を手に入れた、そこに神の意志を介入させる余地は無いのですから。

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